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第9話 夫の指の血

last update Tanggal publikasi: 2026-09-14 23:35:33

 きれいに結ばれたネクタイ。陰のある目元。私を学校から追い払った男とは思えないほど、穏やかに微笑んでいる。

「灯里。遅かったね」

 父の代からいる役員が、私を見るなり顔をしかめた。

 研究室が狭かった頃、夜食を差し入れてくれた人だ。

「今さら、何をしに来たんです」

「私が作ったものの話をしに来ました」

「会社を放り出したのは、あなたでしょう。これ以上、現場を混乱させないでください」

 ほかの役員たちも、私から目をそらさない。懐かしさはなく、迷惑な人間を見る目だった。

 正臣は、私について何を言ったのだろう。

 私が自分から研究も会社も捨てたとでも?

 莉乃が立ち上がった。

「桐谷さん、こちらは関係者だけの会議です」

「なら、私がいないほうがおかしいでしょう。私が作ったプロダクトなのだから」

 壁の画面には、CARE-LINKの名と、その下に相良莉乃の名前があった。

 私が最初につけた製品名。

 奏汰が眠ったあと、父と何度も候補を出し合った。人と医療をつなぐ。その意味だけは変えたくないと決めた名前だ。

 その下に、莉乃の名前がある。

 胸が痛むより先に
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     その笑みで、私は椅子から離れた。  八年前なら、その笑顔を見られただけで嬉しかった。  私が必要なのだと思えたから。  今は違う。正臣は、私の心配まで、自分のもとへ戻る証拠に変えようとしている。 「床に血を落とさないで。他社の会議室でしょう」  正臣の笑みが消えた。 「家に帰ろう、灯里。今回のことは許す」 「何を許すというの?」 「他の男に、自分が欲しいと言わせたことだ」 「あなたは盗み聞きしたの?」 「夫が妻を心配して、何が悪い」 「心配なら、どうして私を呼ばずに莉乃を連れてきたの」  正臣は答えなかった。  指の血を榊が差し出したハンカチで拭いながら、私だけを見ている。  莉乃が正臣の袖へ手を添えた。 「正臣様、桐谷さんは混乱しているだけです」  正臣はその手を見もしなかった。 「私を追い出したのはあなたよ。莉乃を私の名前で抱いたのも、私の仕事を渡したのも」 「君には罰が必要だった」  一瞬、室内がざわめいた。  父の代からいる役員が、正臣と私を見比べた。株主の一人が、隣の男と目を合わせる。  さっきまで私を責めていた顔に、初めて迷いが浮かんだ。  ざわめきを切るように、正臣の声がさらに低くなった。 「君は、僕より仕事を選んだ。奏汰の母親なのに、家の外ばかり見ていた」 「だから、私の代わりを作ったの?」 「僕が愛しているのは灯里だけだ」  莉乃の指が、正臣の袖から落ちた。  莉乃は正臣を見上げた。  自分だけに向けられていると信じていた笑顔が、少しずつ崩れていく。  それでも、かわいそうだとは思えなかった。  私の名前も仕事も奪ったまま、被害者の顔をするのは許せない。 「では、私は何ですか」  莉乃の声が震えた。  正臣は顔を向けなかった。 「君は灯里だ。余計なことを言うな」  莉乃の顔から血の気が引く。  本物の私が目の前にいるのに、正臣は二人へ同じ名前を押しつける。どちらの気持ちも見ていない。  愛していると言いながら、正臣が見ているのは、自分に従う灯里だけだ。  私でも、莉乃でもない。  料理も、仕事を休んでそばにいることも、昔の私は自分で選んだ。  正臣を愛していたからだ。  それを妻の役目に変え、従わなくなった私を罰したのは、正臣だ。 「それは私じゃない」  私は

  • 夫がメイドを私の名前で抱いた――すべてを奪われた元・天才医療研究者は、冷徹社長に本物と見抜かれ溺愛される   第9話 夫の指の血

     きれいに結ばれたネクタイ。陰のある目元。私を学校から追い払った男とは思えないほど、穏やかに微笑んでいる。 「灯里。遅かったね」  父の代からいる役員が、私を見るなり顔をしかめた。  研究室が狭かった頃、夜食を差し入れてくれた人だ。 「今さら、何をしに来たんです」 「私が作ったものの話をしに来ました」 「会社を放り出したのは、あなたでしょう。これ以上、現場を混乱させないでください」  ほかの役員たちも、私から目をそらさない。懐かしさはなく、迷惑な人間を見る目だった。  正臣は、私について何を言ったのだろう。  私が自分から研究も会社も捨てたとでも?  莉乃が立ち上がった。 「桐谷さん、こちらは関係者だけの会議です」 「なら、私がいないほうがおかしいでしょう。私が作ったプロダクトなのだから」  壁の画面には、CARE-LINKの名と、その下に相良莉乃の名前があった。  私が最初につけた製品名。  奏汰が眠ったあと、父と何度も候補を出し合った。人と医療をつなぐ。その意味だけは変えたくないと決めた名前だ。  その下に、莉乃の名前がある。  胸が痛むより先に、足が前へ出た。 「その名前を消して」 「正臣様が認めてくださったんです」 「私が認めていない」  正臣は頬杖をつき、私たちを見ていた。  離婚届への署名を拒んだ夜と同じ目だった。  あの時、私が「嫌」と言うほど、彼の笑みは深くなった。  離婚したいはずなのに、どうしてあんなふうに笑ったの。  私を遠ざけたいのか、追いかけさせたいのか。  長く一緒にいたはずなのに、正臣が何を考えているのか、もう分からない。  背中が冷えた。 「灯里」  正臣が、甘く呼んだ。  椅子から立ち上がり、テーブルを回ってくる。仕立てのいいスーツが長身によく似合っていた。  穏やかな笑みのまま、陰のある目だけが私を逃がさない。 「鷺宮とは、ずいぶん楽しそうだったね。まさか、抱かれる気はないだろう?」  息が止まった。 * * *  少し前。  隣室で、正臣は片耳のイヤホンを外した。  鷺宮燎の「君が欲しい」という声が、まだ耳に残っている。  正臣はイヤホンを床へ落とし、革靴の踵で踏んだ。  小さな破片が散る。 「社長」  久条家の秘書、榊が足元を見た。 「それを

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     私は頬のガーゼに触れかけ、手を下ろした。  正臣に追い出されたから、次の男の言うとおりにするのでは意味がない。  奏汰を守りたい。父の会社を取り戻したい。  そのどちらも、私の身体を渡す理由にはしない。 「断ります」  燎の目を見て言った。 「私の仕事を守るために、私を差し出すつもりはありません」  沈黙のあと、燎の口元が少し上がった。 「そうか」  怒らない。そのことが、かえって不気味だった。 「隣の会議に入ります」  私が言うと、燎はテーブルへ片手をついた。 「俺の話を聞いていたか」 「聞きました。正臣は私を悪者にして、莉乃を開発者にするつもりなんでしょう」 「なら、ここにいろ」 「嫌です」  燎の目が細くなる。 「あなたの後ろに隠れたら、正臣は私が浮気相手に頼ったと言う。私が自分で話します」 「連中は君の話を聞くために集まったんじゃない」 「それでも、黙って会社を渡す気はありません」  頬の傷が熱を持った。  怖くないわけではない。正臣が手を上げれば、身体は先に顔をかばうだろう。  それでも、ここまで来たのは私だ。 「莉乃を信用していないのでしょう。あの人をどう扱うかは、あなたが決めてください」 「俺に任せるのか」 「莉乃の答えがおかしいと見抜いたのは、あなたです。私は、私の仕事について話します」  バッグを持ち、扉へ向かった。 「そのうち泣きながら、俺に助けを求めることになる」  足を止めた。  正臣なら、ここで振り返るまで同じ言葉を重ねた。燎は待っているだけだった。 「そうしたら、代償に抱くんですか」 「そうだ」 「そうはなりません」  燎の横を通り過ぎる。  手首をつかまれると思った。  正臣なら、そうした。  言うことを聞くまで扉の前へ立ち、私の行き先を決めただろう。  燎の腕は動かなかった。 「止めないんですか」 「止めれば、君は俺も同じ男だと思う」 「違うんですか」 「それを決めるのは、会議が終わってからにしろ」  戸惑った。  この人は、正臣とは違うのだろうか。  いや、そんなわけはない。私を欲しいと言い、従わせようとする。男はみんな同じだ。  私は強く扉を引いた。  廊下では真鍋が待っていた。 「隣の会議室へ行きます」 「社長は」 「置いてきま

  • 夫がメイドを私の名前で抱いた――すべてを奪われた元・天才医療研究者は、冷徹社長に本物と見抜かれ溺愛される   第7話 俺は、そのプロジェクトが欲しい。それと、君も

     面談室の扉が開いた。  莉乃がいると思っていた。  けれど、中にいたのは一人の男だけだった。  濃紺のスーツに包まれた肩が広い。厚い胸板から腰へ落ちる線が、仕立てのいい布越しにも分かった。立っているだけで、広い部屋が急に狭く見える。  男は窓際から振り返り、傲慢そうに笑った。  切れ長の目と、すっと通った鼻筋。腹が立つほど整った顔だった。  自分が勝つことも、私がここへ来ることも、最初から疑っていない。世界のほうが彼の決断についてくると信じている男の顔だ。  むかつく。  この男、ベッドでも自信満々に女を従わせるに違いない。  それでも、自信に満ちた顔から目を離せなかった。 「桐谷灯里です」 「鷺宮燎だ」  医療スタートアップ、SENOVA Medicalの創業者。  世界を相手にする男は、私の名にも驚かない。  写真より若い。自信に満ちた目が、こちらの迷いまで先に読む。  莉乃がこの男と何を話したのか、私にはまだ分からない。 「お待ちしておりました」  案内してきた秘書の真鍋が言った。 「私が来ると、どうして知っていたんですか」 「来ると思った」  燎は答えにならない答えを返し、真鍋を外へ出した。  扉が閉じる。 「莉乃はどこですか」 「隣だ。久条側の人間と一緒にいる」  テーブルには、莉乃が使っていた画面が残っていた。  正常値を示す緑の印。その端に、小さく「説明用・架空患者」とある。 「相良は、この数値を提携病院から受け取ったと言った」 「架空の患者なのに?」 「病院名も答えられなかった」  少しだけ、ほっとした。  家では、誰も私を信じてくれなかった。  けれど、この男は、私がこれを作ったと見抜いているようだった。 「それで、私を待っていたんですか」 「俺は、そのプロジェクトが欲しい」  燎が近づいた。  一歩、もう一歩。長い指が画面を閉じ、その手が私のすぐ横のテーブルについた。  顔を上げると、息がかかりそうな距離に彼がいた。  触れてもいないのに、燎は私の反応を楽しむように笑った。 「それと、君も」  呼吸が浅くなる。 「どういう意味ですか」 「顔に出ている」 「何が」 「俺から目を離せない」  頬が熱くなった。 「自信過剰です」 「よく言われる」  笑いを

  • 夫がメイドを私の名前で抱いた――すべてを奪われた元・天才医療研究者は、冷徹社長に本物と見抜かれ溺愛される   第6話 彼女は、もうすぐ来る

     警察を呼ぶ。 正臣の声が、発表会のあとも耳に残っていた。 奏汰へ近づけば、学校で騒いだ母親にされる。 私は体育館を出た。正臣の言い分を増やすわけにはいかなかった。 病院へ向かった。 頬の傷を診た医師が、何があったのかと聞いた。「夫に、皿を投げられました」 口にすると、声が震えた。 医師が頬の傷を洗ってくれた。 病院を出て、父の部屋へ戻った。 狭い部屋には、古い机と父の白衣が残っていた。 父は夜遅くまでここで数字を見ていた。私も学生の頃、隣で論文を読んだ。 正臣は結婚するとき、この部屋を見て笑った。「もう、君が泊まり込む必要はない。研究より、久条の妻でいるほうが大事だろう」 私はその言葉を愛されている証拠だと思おうとした。 仕事を減らし、家の予定を優先した。久条家の奥様として間違えないように。 でも、何を渡しても足りなかった。 妻の席も、母の席も、名前も。 正臣は、私を追い出して、別の女をそこへ入れた。 午後、研究室時代の後輩からメッセージが届いた。 ――桐谷さん、会社がまた動き出すんですってね。SENOVAと組むとか。でも今日の面談、桐谷さんじゃなくて相良さんが出るって本当ですか? 会社が、また動き出す。知らなかった。 父から継いだ、小さな医療データの会社だ。 奏汰の病気を少しでも楽にしたくて、私は食事、薬、睡眠、検査値を一つにつなぐ仕組みを作った。小さな試験で腹痛の前ぶれを拾えたとき、正臣は笑って言った。「これで久条の事業になる」 外へ売り出す頃から正臣が会社の表に立ち、私は作った本人なのに遠ざけられた。 共同開発の話は、しばらく止めると聞かされていた。 奏汰のことが落ち着くまで待て、と。 相良さん。 莉乃の名字に指が止まった。あの女が、父から継いだ会社まで? 続けて、短い動画が送られてきた。 本番前の控室だった。 莉乃が私と同じように髪をまとめ、久条側の数人へ説明していた。 久条側の男たちが、当然のように頷く。「大切なのは、食事だけではありません。睡眠と薬の時間を一緒に見れば、腹痛が起きる前に変化へ気づけます」 その言葉は、私が考えたものだった。 五歳の冬、奏汰が夜中に腹を痛がった。私は朝まで背中をさすりながら、前日に食べたものと薬を飲んだ時間を何度も思い出した。「お腹が痛いの、僕だけ

  • 夫がメイドを私の名前で抱いた――すべてを奪われた元・天才医療研究者は、冷徹社長に本物と見抜かれ溺愛される   第5話 危険なお母様には、しばらく会わせられません

     頬の傷は、朝になっても熱を持っていた。 昨夜は、父が昔の会社の近くに残した小さな部屋で夜を明かした。 研究室に泊まり込むための部屋だった。結婚するとき、正臣は「もう、ここへ泊まりに戻る必要はない。これからはあの屋敷が君の家だ。何も心配しなくていい。僕が一生、大切にする」と笑った。 あの頃は、もうここへ戻る日は来ないと思っていた。 けれど、父と机を並べて夜を明かした部屋だ。鍵を手放すことだけは、できなかった。 バッグの底に残したまま、八年が過ぎた。 一生大切にすると言った正臣に追い出されて、私はその鍵でドアを開けた。 鍵がなければ、門の前で朝を待っていた。 鏡を見ると、細い赤い線が斜めに残っていた。指で触れると、まだ痛い。 それでも私は、先に奏汰の学校へ向かった。 今日は初等部の発表会だった。 奏汰は舞台で、恐竜の研究発表をする。スライドの順番を一緒に確認したのは、私だ。緊張すると早口になるから、最初の一文だけゆっくり読む練習もした。 受付で名前を告げると、事務員が困った顔をした。「久条奏汰くんの保護者席は、もうご家族様がお入りです」「母です」「ですが、こちらには……」 彼女が名簿を隠す。 その先に、莉乃の名前が見えた。 体育館へ入ると、正臣が最前列にいた。その隣に莉乃。奏汰の予備のカーディガンと、青い恐竜の飾りがついた薬袋を膝に置いている。 奏汰が五歳の時に選び、私が袋へ縫いつけた飾りだった。 莉乃が、自分のもののように薬袋を開けている。「奏汰」 舞台袖にいた奏汰が振り返る。 私を見ると、一瞬だけ表情が揺れた。すぐに正臣のほうを見る。「ママ、来ないで」 周りの保護者がこちらを見た。「莉乃さんがママでいい」 細い声だった。 けれど、よく通った。 私は唇を噛んだ。 奏汰を責めてはいけない。八歳の子どもが、父親と家の大人に囲まれている。ゲームを許してくれる人、チョコをくれる人、病院を忘れさせてくれる人。その人を優しいと思うのは、子どもなら自然だ。 でも、自然だから痛くないわけではない。「奏汰。今日は終わったら、薬の確認を」「莉乃さんがやってくれる」 莉乃が立ち上がった。「奥様、奏汰様は今日は緊張しています。刺激しないであげてください」「その薬袋に触らないで」「正臣様からお預かりしています」「奏

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